記事は大きな反響を呼び、3月19日より電子版で掲載されることになりました。未公開写真も含め、極めて貴重なものです。
ぜひ、ご覧ください。
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https://gendai.media/articles/-/124139
あまりに美しい…流転の王妃・愛新覚羅浩とは何者か?その波乱に富んだ人生の全貌

愛新覚羅浩(あいしんかくら・ひろ)は、20世紀のはじめに日本の名家に生まれ、やがて満州皇帝の弟・溥傑と結婚、満州に渡った。敗戦の混乱期に大陸を流浪し、筆舌に尽くしがたい苦労をしたことから「流転の王妃」と呼ばれることもある。彼女の誕生日は1914年の3月16日。生誕110年を迎えた。その足跡をたどる。(『週刊現代』電子版より)
インタビューを受ける共に、歴史写真など資料の全面的な協力をしました。電子版は写真の点数は、記事の容量が大きくなり過ぎてしまうため、雑誌版よりも掲載写真が少し少なくなっています。

満州にソ連軍が侵攻する直前の竹田宮光子妃(前列中央)らとの「最後の茶会」。後列左から浩、皇帝溥儀の三妹、二妹。隣でソファから顔を出しているのが二女嫮生(写真提供・本岡)。
この時、日ソ中立条約失効まで、一年近くあったため、ソ連軍が国境を越えて満州の地になだれ込むことは予想していなかった。これを一方的に破棄して国境を越えて侵攻してきた―。
以下、拙著『流転の子-最後の皇女・愛新覚羅嫮生』より、ソ連侵攻の部分を一部抜粋。
【ソ連が攻めてくる】
「それは地獄絵でございましたから……」。嫮生は瓦解寸前の「満州国」の様子をこう話し始めたが、言葉はすぐに途切れた。
一九四五年八月九日午前零時。ソ連軍は「日ソ不可侵条約」の一年後の失効を待たず、これを一方的に放棄し、国境を越え満州に侵攻した。幼い嫮生はまだ安らかな眠りの中にいた。
東満、北満、西部国境線を突破して満洲の野になだれ込んだソ連軍は、地上八〇個師団、戦車・機械化四〇個旅団、飛行三二個師団を含む兵員一七四万人。火砲約三万門、戦車・自走砲約五二五〇輌、飛行機約五一七一機の大兵団を構成していた。対する関東軍の実質戦力は、訓練や装備も整わず八個師団にも満たなかった。ソ連軍の兵力はその数、関東軍の戦闘可能保有数の二〇倍以上。絶対的に兵員が不足しており、国境付近の警備は極めて手薄で東部戦線は激しい雨にさらされ、次々陣地は壊滅していったが、北部のハイラルや呉孫などでは守備隊が多大な犠牲を出しながら戦線を支え死闘を繰り広げていた。
午前一時、関東軍総司令部に第一報が入り、まもなくソ連機による新京爆撃が始まった。満州国の首都に初めての空襲警報が鳴り響いた。自宅で眠りに入っていた溥傑は直ちに軍服に身を固め、冷静に事態を見極めようと窓から空を見上げていた。
「空襲警報でございましょうか」。浩が夫の背に問いかけた時、耳をつんざく爆裂音がとどろき、宮内府の南方に闇夜を焦がす火柱が上がった。溥傑はすぐさまラジオのスイッチをひねった。
「ハルピン方面より敵機は吉林方面に向け進攻中なり。帝京付近に爆弾を投下した模様なり……」
その冷静なアナウンスがむしろ、事の重大さを語るようだった。敵機は大連ではなくハルビンから襲来している。進攻はアメリカではなく、北のソ連なのか。
「嫮生を連れて、早く防空壕に避難しなさい。私はこれから宮廷にいく。くれぐれも留守中、気をつけるように」
溥傑はその言葉を残して、飛び出していった。嫮生は眠い目を擦りながら母の手に引かれ、防空頭巾を被り初めて防空壕で一夜を明かした。
「母はまんじりともせず、わたくしを力いっぱい抱き締めていたようでございます。その腕の強さだけがかすかに記憶に残っております」